鋼板加工ニュース

2022.09.20

2022.09.20

歴史

ものづくりの町「大阪・九条」の歴史をたどる 【Vol.3 最終回】


焼け跡からの復活

太平洋戦争末期、1945年3月13日の大阪大空襲は苛烈を極めました。敗戦に至るまでの5カ月間で大阪は8回の空襲に見舞われます。

1万人以上の市民が犠牲になったということです。

・参考:B-29の焼夷弾大空襲で焼け野原になった大阪市街

数度の空襲で大阪の街は徹底的に破壊されました。いまニュースで見るウクライナの光景と重なります。

それでも焼け残った建物は、いまも大阪の街に散見されます。九条周辺ならば九条新道商店街から本田(ほんでん)にかけての一帯です。

いまも往時をしのばせる建物が点在します。逆に言うと、それら以外の地域は壊滅的な被害でした。そんな廃墟から戦後の復興が果たされたのです。

あらためて先達の苦労を偲びます。

坂元鋼材の再起

1949年(昭和24年)、焼け跡の大阪に当社の創業者夫婦が戻ってきました。故郷での8年間の疎開暮らし、創業者の坂元正二も戦地から戻りました。

その翌1950年(昭和25年)にはジェーン台風に遭遇。九条一帯は膝上まで浸水しています。井戸が使えなくなり、祖父母たちはそれをきっかけに水道を敷いたそうです。当時は畳を買う金が惜しくて「むしろ」を敷いての生活。

そんな苦労からの商売の再開。

戦後の復興を支えたのは、このような昭和の商工人たちでした。そんな苦しい生活にもかかわらず、帰阪3年後の1952年(昭和27年)には、資本金250万円で坂元鋼材株式会社を設立しています。

たったの3年間にどのような努力があったのか、もっともっと聴いておくべきでした。九条、大阪、日本全国でこのような必死の再建がなされていたのでしょう。

それを思うと、いまの日本経済の苦境も必ず克服できるに違いないと思えます。

・坂元鋼材株式会社ホームページ(沿革)

https://sakamoto-kouzai.co.jp/company/

日本を代表する鉄鋼の街

九条の焼け跡は戦後の都市計画で整備されます。

1960年代に中央大通りが開通します。1964年地下鉄中央線「九条駅」が完成し、街の骨格ができました。自動車が交通の主役となり、数々の運河が埋め立てられます。

九条は戦後の高度経済成長を支える鉄鋼のメッカとして復活。各種鋼材を扱う会社・工場が集まりました。

「九条に来たら何でもそろう」という鉄の街になりました。広く西日本を商圏とする鉄鋼商社が本社や倉庫を構え、中小の町工場が数多くひしめきます。

しかし都心に近い土地柄のため、工場だけでなく商店や住宅も混在しました。

企業にとっては工場拡張に限界が生じます。

そこで戦後に埋め立てが進んだ「南港」、あるいは当時は田畑だった「東大阪」など大阪の周辺部に会社や工場が移転していきます。

大阪府下の鉄鋼各社の沿革を見ると「この会社も九条にゆかりが?」と驚くこともしばしばです。

工場跡にマンションが林立

1990年代のバブル崩壊、日本経済の長期低迷を経て、街の風景はさらに変わりました。

平成の30年不況や後継者難も加わり、廃業や倒産が相次ぎます。鉄を扱う工場は減り続けました。

広い跡地に住宅が建ち、マンションが林立します。2009年の「阪神なんば線」開通で九条はさらに交通至便な街になりました。

そこへリーマンショック後の不況が重なります。工場の閉鎖にさらに拍車が掛かりました。工場と民家が密接に混在する街、それが九条の現在の姿です。

しかしどんなに時代が変わっても、九条が「大阪の鉄のふるさと」であることに変わりはありません。

戦後復興を支えた先人たちの歴史を受け継いで、これからも関西の鉄鋼業界を支え続けます。

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