鋼板加工ニュース

2022.04.05

2022.04.18

歴史

本物は続く、続けると本物になる【坂元鋼材の歴史 vol.1】


この4月から新しい年度が始まりました。弊社は第71期になります。
人間にたとえると「古希」を1歳過ぎたわけです。

当社の歴史は1935年(昭和10年)創業の「坂元商店」にさかのぼります。創業者は私の祖父・坂元正二と祖母・坂元はる。

戦前の大阪・九条

郷里の播州(兵庫県宍粟市山崎町)から大阪・九条に、鉄の商売をしていた親戚を頼って出てきています。明治・大正を経て九条地区では鉄鋼を中心とする諸工業が発展していました。

なぜ大阪に出てきたのか、農家の長男だった祖父の立場を考えれば不思議なことです。祖父26歳、祖母19歳、ほとんど新婚です。

朝も暗いうちから働き、曲がった鉄を買うてきて、まっすぐに伸ばしたら高く売れた――。

そんな商売から始めたと祖母は述懐していました。太平洋戦争が始まる1941年まで商売し、祖父が兵役に服すために店を畳んで郷里に帰っています。

 創業時の苦労

それからの8年間、祖母は慣れない農作業です。「嫁いびり」も酷かったらしい。NHK朝ドラの名作「おしん」(その九州編)を彷彿とさせます。

勝ち気で商売好きだった祖母は、農家生活がどうしてもなじめなかった。
おっとりした性格の祖父を焚きつけて大阪へ戻ってきています。

「貧乏は覚悟、それでも商売がしたい」――。

だから当社の実質の創業者は祖母です。気が強く、男勝り。まさに「おしん」そのものでした。

1949年(昭和24年)の大阪はまだ焼け野原だったようです。闇市で買ったヤミ米や麦飯で飢えをしのいで商売の再開。祖父40歳、祖母33歳。娘2人(11歳、9歳)。この祖父母の長女が、私の母です。

「食べ物がなかったあの頃を考えると、なんでも辛抱できるなあ」と母はよく言います。その翌年(1950年)にジェーン台風が大阪を襲いました。「膝まで水が来た」と母。飲み水に使っていた井戸がダメになり、それから水道を引きます。

商売に励み、生活を切り詰め、ようやく少しの余裕が出始めます。1951年(昭和26年)に買ったのが現在の坂元鋼材の敷地(現・第1工場)です。100坪ほどとはいえ、ゼロから再スタートした2年後によく土地が買えたものです。土地は買ったものの畳を買う金が惜しく、「むしろ」を敷いて暮らしたそうです。

その翌年(1952年)、資本金250万円で「坂元鋼材株式会社」を設立しています。

これが第1期で、ここから今日まで71年の歴史が続くわけです。当時の250万円はいまでは何倍の価値があるでしょうか。厳しい生活の中で商売にいそしんで貯めたお金だったはず。先祖の苦労が偲ばれます。

高度経済成長、そして経営危機

戦後の復興、そして鉄鋼需要が急増します。1960年(昭和35年、第9期)には道路の向かい側に新しい土地を買っています。それがいまのレーザー工場の敷地です。その年に郷里から婿を迎えています。

私の父(良三)です。

農家の次男だった父は、郷里の高校を卒業して大阪・道修町の薬問屋で働いていました。そして23歳で坂元家の婿に入ります。

ときは高度経済成長の入口でした。坂元鋼材は鋼板加工(ガス溶断)に乗り出し、順調に伸びます。さらに1974年(昭和49年、第23期)には隣地を購入しています。いま事務所が建っている場所です。

ところが、その年にピンチが訪れます。石油ショックで世の中が不景気となり、当時最大の販売先だった会社が倒産。手形商売のため巨額の不渡りを被ります。当社始まって以来の経営危機でした。

この時、社長が祖父から父に代わっています。父37歳。父も逆境の中での世代交代だったのでした。

今回はここまでのストーリーとします。
続きは、次回に。

会社には歴史があり、創業者の思いがあり、経営のバトンをつないでくれた先祖がいる。だからこそ誠実で真っ当な仕事をしつづけなければならない。第71期のスタートに当たり、改めて思いを新たにします。

大阪から全国へ
加工・配送対応!

レーザー・プラズマ・ガス溶断の短期品・
一貫加工品はお気軽にお問い合わせください。