鋼板加工ニュース

2022.07.13

2022.08.17

歴史

ものづくりの町「大阪・九条」の歴史をたどる 【vol.1】


九条で育って半世紀

「下町の鋼材屋」の3代目として生まれた私。

九条生まれの九条育ち、生粋の九条っ子です。

今年53歳です。この街を見て半世紀。

小中学校の友人も町工場や鉄鋼関係者の子供がたくさん。
九条の街の隅々が遊び場でした。

小学校の課外学習では江戸時代の「九条島」の地図を描きました。

そんな私の古い記憶、大人たちから聞いた話、そしてネットや書籍をひもとき、
「九条の歴史」をまとめてみます。

一条も二条もないのに、なぜ九条?

もともと海の底だった大阪。

北の淀川、南の大和川が運んだ土砂が堆積して陸地化が進みました。

「なにわ八十島」と言われるほど多くの島々が誕生します。
そのため大阪の地名には「島」がつくものが非常に多い。

中之島、堂島、福島、都島、桜島、四貫島、酉島
江之子島、西中島、柴島、歌島、加島、御幣島
出来島、北島、恩加島、千島、池島・・・。

キリがありません。

その一つが「九条島」でした。
江戸時代までこう呼ばれていたように、長らく九条は「島」だったようです。


私が小学校の時に見た古地図には「九条島・田地」と記されていました。
田畑だったことがうかがえます。

豊臣時代、江戸時代

やがて大阪築城のために資材を運ぶ船を修理する船大工がこの地に住み始め、
それが九条のモノづくりの始まり、とも言われています。(西区広報誌より)

おもに田畑だったこの地域でしたが、
臨海地域のため水害に苦しめられました。

氾濫を繰り返した淀川の流れを付け替え、治水が進みます。

九条という地名の由来については諸説ありますが、治水の歴史が背景にあります。

九条を本格的に開発したのが江戸初期の治水家であり
幕府役人だった香西晳雲(かさい・せきうん)といわれます。

大坂湾の海水の逆流をふせぐため、
寛永元年(1624)に中津川(淀川)河口に堤防を築き、四貫島などを開発しました。
大阪の河川土木に大きな功績を残しています。

やがて儒学者・林羅山がこの地を「衢壌(くじょう)島」と命名しました。

「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、
賑やかな場所になるように、そう願ってつけられたようです。

江戸時代の古文書には
「貞享年中(1684~88)この地の衢(みち)を切り、淀川の流れを直す」
と記されているようです。

幕府の命を受けた治水家・河村瑞賢の登場です。
大坂湾に注ぐ「淀川」の河口に蓋をするような形で存在した「九条島」に
水路が開削されます。

これが「安治川」です。

明らかに、洪水を治めるという願いが名前に込められてます。

この時に「衢(みち)を切って淀川の流れを直した」ことから
「衢壌」(くじょう)の名が生まれたとも言われます(摂陽群談による説)。

その一方、延宝年間(1673~81)の洪水のときのこと。
「京都の九条家」の笏(しゃく)が流れ着いた。
だから九条と称するようになった、という説もあるようです。

いずれにせよ治水や河川にからむ歴史が色濃い。

「衢壌」という難しい漢字を避けて、誰でも読める「九条」の字を当て、
現在の地名になったというものに説得力を感じます。

明治以降から現在までは、次回ブログにて。

大阪から全国へ
加工・配送対応!

レーザー・プラズマ・ガス溶断の短期品・
一貫加工品はお気軽にお問い合わせください。