鋼板加工ニュース

2022.05.13

2022.05.14

歴史

本物は続く、続けると本物になる【坂元鋼材の歴史 vol.2】


当社の創業ストーリー、その2回目です(全3回)。

1974年(昭和49年、第23期)のこと、大きなピンチが訪れます。石油ショックで世の中が不景気となり、当時最大の得意先が倒産。巨額の不渡りを被ります。

会社始まって以来の経営危機でした。この時、社長が祖父から父に代わっています。父37歳。逆境の中での事業承継でした。

無類の働き者だった父

私の記憶が始まるのが、この前後からです(私5歳)。子供心に覚えている父母の面影は、年がら年中、四六時中ずっと忙しく働いている姿です。夕食後も会社で夜中まで働きます。夕食の片づけを終えた祖母がそこに加わります。

今でこそパソコン(CADとプリンター)がありますが、当時は父が定規とコンパスで型紙を作図し、祖母がハサミで器用に切っていました。寝るのは深夜1時か2時。朝は8時から仕事です。「身を粉にして働く」という言葉しか思いつかない日常でした。

父は几帳面な性格でした。婿養子としての立場をいつも意識していたのでしょう、真面目すぎるほど真面目でした。のしかかる借金を、一生懸命に働いて返していきました。そして会社を堅実に経営し続けました。時代はバブル経済の隆盛、そして崩壊を迎えます。

 父の急逝、あわただしい後継

さて、ここから私のストーリーが会社の歴史に重なってきます。私は父の長男として生まれました。きょうだいは姉が2人。長男坊として跡継ぎを期待されていましたが、学校を出ると新聞記者を志して大阪を離れました。

ところが記者生活4年目のある日、大阪からある報せが入ります。「父がすい臓がんに」というものでした。それまでの親不孝をわび、私は大阪に帰りました。

ペンの道で世の中に貢献したいという若い日の志でしたが、苦労に苦労を重ねて会社を守り抜いてくれた父への恩返しが先でした。私が帰阪した翌年、父はあっけなく他界(享年62)。

私は29歳で3代目をあわただしく継ぎました。それが1999年(平成11年、第48期)。日本経済はバブル経済崩壊の大底でした。

失敗の10年、そして改革の12年

入社1年目でいきなりの社長。鉄のことも経営のことも、何もわからなかった。素人がいきなり社長になりました。振り返れば、この時こそが当社最大の経営危機でした。

私は素人経営を続けます。恥ずかしながら経営に原理原則や定石があるのを知らなかった。決算書もろくに読めず、何を目指したらいいのかもわからなかった。

経営に羅針盤がなかった。

父をよく知るベテラン社員さんたちが助けてくれたものの、私が採用した社員はなかなか定着せず。組織はバラバラでした。

我流経営を続けた10年目、襲い掛かったのが2008年のリーマンショックです。仕事が半減し、鉄鋼相場が暴落。翌2009年(第58期)に会社始まって以来の大赤字。

「景気が良くても悪くてもビクともしない会社にしたい!」――。
そう切実に願いました。

30歳で後継した私も40歳になっていました。

今回はここまでです。次回(最終回)は、リーマンショック以後の改革の13年です。

会社には歴史があり、創業者の思いがあり、経営のバトンをつないでくれた先祖がいる。だからこそ誠実で真っ当な仕事をしつづけなければならない。

第71期のスタートに当たり、改めて思いを新たにします。

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